Column for ANTHOLOGY issue
Words & Photography Honma
もうそのカービングコーナーには新倉くんが書いたDEADHEADはありませんでした。ここに来るのは大学生の頃以来なのでもう25年くらい経っているから、当然と言えば当然か。聞いた話では地震のときに津波が流入し、相当量の土砂が積もり、路面はひび割れ、セクションもかなりのダメージを負ったそうです。今は滑れるように整備されてはいるものの、やはり僕の記憶とはかなり異なる姿がそこにありました。初めて行ったのはいつだったか? 熊本くん(HIGO-VICIOUS)の「一日ブラント事件」の日だったか、亘(長島亘)やダイコン(田中大輔)とのカービング電車の日だったか、ヒカリやスズタカらと大きなラジカセと単一電池30個くらい持って前夜にもう到着していたあの日だったのか。どの記憶が初めての訪問だったか時間軸がはっきりしない。ここは蓮沼海浜公園のスケート場。九十九里海岸の公園の端っこに作られた、急なバンクとRに囲まれた謎のスペース。もう春夏秋冬いつのシーズンにも数えきれないくらい訪れているのだが、ここ蓮沼海浜公園ではなぜか夏の思い出ばかりが強烈に思い出されるのである。熊本くんと行ったときには、それが後の「instantご意見番 HIGO-VICIOUS」とのご縁のはじまりでありました。亘に「熊本から来た熊本くん」って紹介されて、あまりのベタ
な名前に笑ってしまった。本名も聞かずとにかく滑った。亘がブンブン走り回っている横で、熊本くんがブラントを失敗して「いつもはできるんすよ」って何度も何度もトライして、結局帰るまでずっとブラント
しかしてなかった。日が出てから日が落ちるまでずっとブラント。夏の蓮沼のパターンとしては、明け方ちょっと前に現地に到着して、日の出を見ながら滑り出す。今思えばそんなに早く行く必要はまったくなかったのにね。日が昇って灼熱の蓮沼は転ぶと「ジュ」って音が聞こえそうなくらい路面が熱くなり、ウィールが柔らかくブッシュもクニャクニャになる。その頃には、滑り過ぎて寝てない僕らは肉体の限界を迎え、灼熱の車で汗ダク睡眠して脱水症状になったり、日陰で寝たつもりが熟睡中に太陽が動いて全身日焼けで真っ赤になったり、それぞれのスケートに飽きちゃってスタートからゴールを決めてタイムレースにハマったりしてた。ま、今思えば一日24時間の使い方としては、とても濃く、そして事件が多発する夏の日でした。何度も救急病院も行きましたし、あるときには僕が乗っていた4輪駆動車を友人に貸したら、砂浜で横転してオイルだだ漏れで屋根ベコベコとか。夏の蓮沼はちょっとした非日常的な旅の感じや夏の海のジリジリ感が満載でした。思い出話も尽きません。当時はそんな場所は、近くにはありませんでした。最近では地元からちょっと足を伸ばせば、整ったスケートボードパークが増えてきましたね。10年前では想像もできませんでした。またここ
最近、僕はちょっと思うところがあ
るのです。これからはヘルメットや換えのTシャツを何枚もバックパックに突っ込んで、街から電車や
バスに乗って滑りに行く、規模の大きなスケートボードパークよりも、ポケットに小銭を突っ込んで家
からプッシュで向かういつでも滑れるスケボー広場が必要なのではないか、と。街中にあって24時間滑れて路面が良くてベンチって名前のカーブボックスがあれば最高です。予算もそんなに必要ないし、そんなに広くなくていい。「スケボー広場」って名前じゃなくても「多目的広場」でも「駅前広場」でもいいのです。人が遠くから集まってくる大きなパークではローカリズムが育ちにくいし、管理された環境下ではカルチャーが根付き難いかもしれない。街から離れた場所ではスケートボード以外でつながる仲間たちとはチルできないし出会わない。もちろん全国的に見れば、まだまだスケートボードを楽しむことができる「場」としてのスケートパークは完全に不足している状況で、今後もより魅力的なパークが出来ることはとても喜ばしいことです。もう素晴らしいお手本が全国にいっぱいあるから、アクションスポーツパークは全国的にこれからボコボコできてくるはずです。愛好者も増えて数値的にマーケットやシーンも広がってくるでしょう。スケートシーンは、この瞬間もいつも変化しているのです。四季や吹く風によって趣を変える木の葉のように、僕はこの変化し続けるシーンを見続けていきたいと思っています。