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TANGENT

ある信条により、小説は読まないことを(くだらなくも)徹底してきた僕に友人がプレゼントしてくれた本。半ば強引に「読め」と手渡された本。それは6年ほど前のことだった。それは遠藤周作の「沈黙」だった。最初は渋々ページをめくっていたはずだったが、いつのまにか作品の世界に引き込まれ、「沈黙」は僕にとっても素晴らしい物語になった。M・スコセッシ監督によって映画化されることを知り、友人とそれを心待ちにしていた。それから時が過ぎ、ようやくキャスティングの段階に入ったという話を聞いた。ロケ地は台湾がメインになるようだが、作品の舞台となった長崎に行ってみようと思った。長崎出身の役者の友人と連れ立って長崎に向かった。作品を手渡してくれた友人と僕は、その長崎出身の友人がこの映画に出て欲しいと思っていた。その友人は原作を読み、そして隠れ切支丹の里を巡って、オーディションを受けることになった。作家・遠藤周作が丹念に取材を重ね歩いた場所を駆け足で巡るということは、作品中のフェレイラ神父が辿った場面を割愛抽出して連想することでもあった。だからこれは観光旅行なのだが、僕にとって、人生のこの時期に行くべきことだったと強く確信するものがあった。諫早、外海、黒崎、平戸……。遠藤周作ははじめ、「沈黙」ではなく「ひだまり」というタイトルの作品にするつもりだったらしい。踏み絵を踏んで転んだ(棄教した)フェレイラ神父や多くの切支丹が、季節に例えるなら冬にさしかかった自らの人生のあるときに、縁側に出て柔らかな日射しを受けて何かを反芻するときの表情とその光景。温かいひだまりの中で何を思い感じるのか。ひだまりに包まれたなら、どんな者であっても(ああ、温かい)と思っていいだろうし、心を開放する瞬間すらもあるのではないだろうか。僕はそんなことを連想してみた。許しを請うことと許すこと。やはりそこには答えなどない。ともすればはじめから何もなかったのだと思っていい。沈黙が多くを語る。沈黙が多くを教えてくれる。そして沈黙が自分を映し出す。どこまでも繋がるものと、どこまでいっても繋がらないものを浮き彫りにする。ようやくだ。ようやく少しわかってきたかもしれない。そんなことを感じ入りながら長崎を巡った。そして、その余韻と確信をふまえて、Sb新号のイントロページへとセンテンスは繋がっていった。今、その瞬間に立ち会っていると自覚していたことはあっただろうか。そのまっただ中で光輝いているとわかっていたことがあるだろうか。キャリアハイ、ベストゲーム、ピーク、ハイライト、スポットライト。そんな形容が相応しい大々的なステージに立つ者ならば実感できるのかもしれない。しかし、その瞬間というのはそういうものだけではない。いくつもあっていいし、どんなものがあってもいい。なんでもないのに懐かしさでたまらなくなるものは、いくらあってもいい。それに、いきなりぐわっと胸に去来してびりびりとなったり、逆に笑えたりすることがあってもいい。そういう瞬間だって、ビューティフル・モーメントだと思う。景色が主役の場合もあれば、自分そのもののこともあれば、そういう場面に居合わせたり立ち会ったりしていた場合もある。そのときは気づかなかったけれど、後になって振り返ると気づくことも多い。「I am in beautiful moment.」。いつか懐かしくそれを思い出すとき、びりびりしたり、笑ったりする。そして。今を生きながら未来へ旅をしてゆく私たちは、またいつか戻ってきて誰かのビューティフル・モーメントに立ち会ってみたり、遠い記憶の中に映し出されたりしてゆく。その扉があけましておめでとう。

Senichiro Ozawa